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酒とバラの日々 福岡を中心とした食べ歩き情報と、ワインやおつまみのレシピブログです。 国内、海外の旅行記もやってます。 Twitter:http://twitter.com/ariahisaeda

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崇徳院陵 稚児の滝 高家神社(血の宮)

白峰寺を離れ、まず崇徳院御陵を目指しました。
遙拝所からはほとんど見えませんでしたから。



せせらぎの音のする道を行くと、崇徳天皇御陵の文字が。
西行がここに訪れた時は、何もなくここが皇(すめらぎ)の陵(みささぎ)かと嘆いたと「白峰」にありますが、
この真新しくも立派な看板を見ると、非常に大事にされております。

白峰寺もこの崇徳天皇陵もかくも整備されているのは、どうも1964年に昭和天皇が勅使を送られたことにはじまっているようです。
(さらに新しそうに見える歌碑などは、大河ドラマの影響かな?)

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そして、この階段の向こうが崇徳天皇陵です。
えー、あまりにも急な石段。登りもきついが、濡れてすべりやすく帰りが怖い。

また、みだりに陵内に立ち入るなと書いてあるし。

ここで遙拝ということで、陵そのものには行くのは断念しました。ここまで来てと大変悔しいですが、本当に階段はあぶなそうだったのです。



ここから次は高家神社に足を延ばすことにしました。
道の両脇には、崇徳院の詠んだ歌の碑が、メガリスのようにたっています。

百人一首にあるのでもっとも有名な崇徳院の歌

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思ふ

宮中で詠んだ華やかな恋の歌とされていますが、後の運命を思うと、ついつい呪歌のようにさえ思えます。
案外、この歌のせいもあって、日本一の大怨霊とされてしまったのかもしれません。



こっから先が大変でした。(一度だけ振り返って震える手でiPhoneで撮った写真です。)
どこまでも続く長い長い石段が一直線で降りなければなりません。石段は雨でつるつると滑ります。傘を持っているので不安定です。
ここで足を滑らせたら、止まる術がありません。ねんざでもしようものなら立ち往生して遭難しかねません。
iPhone握りしめて、もしも身動きが取れなくなったらどこに電話すべきか、ばかりを考えていました。
低いとはいえ山道を歩く装備をしていなかったことは本当にうかつでした。

降りしきる雨の中を、ゆっくり一歩一歩石段を降りましたが、途中三度は滑ってひやひやしました。
降りている途中から筋肉が悲鳴を上げます。階段は降りるほうが足にダメージがくるのです。
いやー、無事降りきった時は本当にホッとしました。

途中にある歌碑などの写真を撮る余裕もなく…

残念だったけど、崇徳院の御陵に登らなかったのは正解でしょう。



無事、降りきることができて、この滝の不動明王を見たときは本当に嬉しかったです。

滝の神さまと不動明王は習合されているため、滝に不動はつきもの。お参りする人が絶えないためか、美しい生花が供えられていました。



激しい滝音に、見上げると滝がありました。雨のために水量が増えて見事な大瀑布になっています。
この険しい峰を稚児ヶ嶽といい、滝を稚児ヶ滝と呼びます。何故稚児なのか、由来はわかりませんでした。

ここで初めて他の観光客を見かけましたが、みんな自家用車使用です。
そうよね。この険しい山道を雨の中歩かないわよね。くすん。



滝を望遠でもう一枚。下から全貌をとらえることはできませんが、とても綺麗な滝です。

そして滝を見ながら一休み。滝を無事見られた満足感でいっぱいでした。

予定ではこれから青海神社(煙の宮)に行くつもりだったのですが、西行法師の道と名付けられた小径は山道。もう、足場の悪いところはコリゴリ、でしたので、青海神社は残念ながらパスしました。

青海神社は崇徳院の遺体を白峰山の稚児ヶ嶽で荼毘に付したときの煙が,東の方にたなびいてここに溜まったことを由来にした神社です。




西行法師の道を諦め、もう一つの崇徳院ゆかりの神社、高家神社(血の宮)に行くことにしました。
しみじみ舗装された道路は歩きやすい、と思いました(T-T)

車道はさすがに車の行き来が多いですが、歩いている人間はいません。ただ多分季節によってはお遍路さんが歩くのでしょう。歩道がついていて歩きやすいです。
道の傍らには石仏が道祖神があり、歩いてて飽きません。

山からのわき水の流れ出す口には、たくさんのお地蔵さまが祀られていました。
丁寧にお世話されているのでしょう。
掃除道具が脇に置いてありました。




すでにガクガクと膝が笑っている状態で辿り着いた高家神社(血の宮)です。
血の宮というちょっとおどろおどろしい名は、やはり崇徳院の伝説が絡んでいます。





崇徳院のご遺体を八十場の清水から稚児が嶽まで運ぶ途中,この地で棺を休めていたところ,棺を置いた六角の大きい石の上に,血がしたたり落ちたとか。
(崇徳院は柳井で京からの刺客に暗殺されたという説もありますから、傷口がひらいたのかもしれませんね。)

その後、怨霊の祟りかここら一帯は農作物さえ生えぬほどになったそうで、鎮めのための神社をたてたのが高家神社だそうです。



このような怪異をまき散らす怨霊としての崇徳院ですが、鎮められた後は四国讃岐の守り神となったそうです。菅原道真公が祟りなす火雷天神から学問の神へと変貌したのと似ているような。

ただ崇徳院が遺した歌を見ると、都を思う侘びしさはあるものの、とても世を呪い、恐ろしい祟りをなすような性格には思えません。この讃岐で一子もうけてもいることだし。
怨霊はそれを恐れる人々の罪悪感によってつくられるもので、ご本人のありようとはまた別なのかもしれませんね。



棺を置いたら血が噴き出したという伝説の石です。

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