とにもかくにも、最初この山門の美しさにびっくりしました。いいお寺だなぁ。
でも、三井寺と書いてなくて圓城寺と。
実は三井寺の正式名称は圓城寺なのでした。
境内マップを見ると広い広い。立派なお寺です。でも、京都や奈良の寺社仏閣と比較するとはるかに訪れる人が少ない。こりゃ、ホントに私向きだなぁ。
日祭日は知りませんが、大型の観光バスで乗り付ける団体のお客さんも見受けられません。
静かだ。こころ落ち着くひととき。
三井寺といえば、やはり浮世絵の
近江八景に選ばれている「三井の晩鐘」です。
こちらがその三井の晩鐘。時折、重々しい響きの鐘がなっていました。
お次は金堂へ。国宝。慶長に豊臣秀吉夫人の北政所によって建てられたものだそうです。秀吉の怒りにふれて、寺領の没収の憂き目にあった圓城寺を、その死後、北政所が保護し、再建したのだとか。
檜皮葺きの大屋根がまことに美しいです。桃山時代の特色を強くのこしているらしいです。
全体を撮ってみましたが…
うーん、私の腕がイマイチなので、この建物の大きさ、迫力が写真では伝わりませんね。
なお、金堂内には、数々の仏像が展示されていて、こちらも見所がたっぷり。ゆっくりと静かな環境で、拝見できるので、いいですねえ。
それにしても、人がいない。絵はがきなどの土産物の店番をしているおじさんたちも閑そうに世間話してました。つか、そのおじさんの声が一番うるさいw
その金堂の横脇にあるのが「三井の霊泉」がまつられている閼伽井屋(おかいや)です。天智、天武、持統の三帝が産湯に用いた泉だとか。で三井寺の名前の由来となっています。
ここには、九頭一身の竜神が住んでいたという伝説があるそうです。
下から撮ったのでわかりにくいのですが、閼伽井屋の入口には名匠左甚五郎作の龍の彫り物が、あります。で、夜な夜な琵琶湖に出て暴れる九頭龍神が封じるために、甚五郎自らその目玉に釘が打ち込み鎮めたと伝えられているそうです。
なんで、神聖な井戸に荒ぶる龍神が住みついたのか、そして、何故江戸時代までほっておいたのか…左甚五郎って江戸時代初期くらいの人物ですよね。
伝説にツッコミ入れるのはまあ、野暮ってモンなんでしょう。
中を覗いて写真を撮っていたら、突然、水のわく「ぼこっ」って大きな音がして、心底びっくりしました。不意打ちだったー
なるほど、龍がいると思われたのは、この音のせいじゃないかな。
なかなか不気味です。
もうひとつ伝承の現場は、霊鐘・弁慶の引き摺り鐘です。
「三井寺と延暦寺とが争った時、比叡山の荒法師武蔵坊弁慶が、一人で叡山の山上まで引き摺り上げ、撞いてみると「いのー、いのー」と響いたので、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ捨てたと伝えられています。」とか…
創作上の人物である弁慶がいかに怪力であったかを、伝えるための伝承ですが弁慶が引き摺った時にできたと言われるひび割れがまだ残っていたりします。
そのとなりには弁慶の汁釜まであるし。なんか、どでかい。弁慶って力持ち、偉丈夫の代名詞だったんだろうなぁ。
それにしても、三井寺と比叡山は仲が悪くて、「山門寺門の抗争」を繰り広げてきたとか。…仁義なき戦い?
歴史ある古いお寺にはこういったフィクションと史実との合間の伝承はつきものですが、ひとつひとつ丁寧に尋ね歩くと楽しいです。
最後に三重の塔へ。
これも秀吉が別のお寺に寄進したものを家康が三井寺に移したものです。
豊臣が冷遇したお寺を、家康や北政所が保護するという図式だったのでしょう。なにがしかの政治的配慮みたいなものが伺えます。
少し遠かったので、お参りするのは割愛しましたが、三井寺にはフェノロサの墓があります。日本と日本の美を愛したお雇い外国人は、この三井寺で得度したそうです。
この自然の中に美しく配置された建築の数々を見るにつけ、フェノロサの気持ちがわかるような気がしました。
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