さて、魏石鬼八面大王とはなにものか?
時はさかのぼり、大和時代のお話。
東征を企む坂上田村麻呂がこの安曇野の地を通過しようとした時のことです。
わさび農場の一角に書かれた説明によれば…。
「全国統一をめざす朝廷はあずみ野に入り、住民を苦しめた。
村は次々と灼かれ、大王は住民を守ることに心砕いた。」
おそらくは八面大王とは安曇野の地の豪族のようなものだったのでしょう。そして、ヤマト王権に「まつろわぬ」勢力。
八面という言葉から、たとえば、一人の領主ではなく、多くの領主たちの混成であったのかもしれません。
力の限りを戦った彼らですが、力及ばず…。
「大王も山鳥の尾羽で作った矢にあたりついに倒れた。」
大王を射貫いた矢には毒でも塗ってあったのかもしれません。この矢についての伝説も
民話として残っています。
「あまりにもつよい大王が再びいきかえらぬように、遺体は分散して葬られた。農場には胴体が埋められていたことから、大王神社を再興し、大王農場と名付けられた」
ヤマト王権の「まつろわぬもの」への復讐の凄まじさが端的にあらわされています。征服し、王を殺しただけでは安心できずに遺体までも辱めるとは…。
実は、ネットで調べると、この
八面大王の話は二種類あって、安曇野で暴れる八面大王を、坂上田村麻呂が退治したとされている話しもあります。一般的にはそちらが膾炙している様子。
八面大王は「英雄」なのか「鬼」なのか?すべては伝説の闇の中です。
しかし、遺体を損壊するほどに、ヤマトが怖れていた、ということだけは残っています。
八面大王の胴体を埋めた祠は、神社の裏にひっそりとあるようです。
八面大王は岩屋にこもって戦ったと言われます。実際に籠もった場所とは違うのでしょうが、その岩屋を模しているのか農場にも洞窟がありました。
2つの岩屋。大王窟と開運窟。
大王窟のほうは、真っ暗で写真が撮れませんでしたが、開運窟の中はライトアップされています。
開運の名に相応しく七福神の道祖神が置いてありました。
一方、大王窟は、八面大王のいわれを詳しく説明する看板があり。
そして、中には二体の仏様がひっそりと安置されていました。
一方、大王の見張り台と名付けられた、高い物見台があり、その上には球形の石がどっしりと置かれていました。
多分、なにがしかの意味があるとは思うのですが、説明書きはなく、なにかはわかりませんでした。
「まつろわぬもの」八面大王。「はちめんだいおう」とも、「やめのおおきみ」とも読むことができるようです。
「やめ」といえば「八女」。筑紫の国とのつながりがでてきました。そのため筑紫野君磐井との関連性を見る向きもあるようです。でも、ちょっと距離的に遠いなぁ。
なにはともあれ、ひどく魅力的な伝説に彩られる八面大王。いろいろと調べてみたいのですが、参考になる本を見つけることができません。
この本が面白そうなのですが、絶版中の様子。Amazonで古書も見つからず。どっかで手にはいらないかなあ
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