石山寺の敷地は大変に広く、よく手入れがされた樹木が見事です。
でも、京都の観光地に比較すると絶対的に観光客が少ない。特に大型バスで乗り付ける団体さんが少ない。
つまり、私にはとても居心地のよい雰囲気なのです。(あんまり修学旅行先にもなってないし。)
[4回]
で、石山寺というとやはりこの宝塔。正式には多宝塔(たほうとう)と呼ぶべきのようです。
鎌倉時代の初頭に建築されたもので、日本最古の木造多宝塔です。
すっごく残念なことに、正面から撮影すると逆光になってしまう。
ナナメ横からとった図です。
こういう大きな建築物の写真は本当に難しいな。ちょっと勉強しないといけない。
裳裾が美しいです。優美でとてもバランスがいい。三重、五重の塔のような権高さはないけれど、柔らかな美というものがあります。いいなぁ。
登ったり降りたり山寺なので、結構きついです。この時、すでに腰は悲鳴をあげていたのですが、「見たい」という気持ちだけが、先にたって。身体の放つ警告を無視していました。当然、その報いを後からうけるわけで…。
でも、綺麗なお寺だったんだよなぁ。空気も澄んでいて、風邪なのに気管支が苦しくなくなって。元気でちゃったんですよ。
こちらの本堂。西国三十三カ所のお札所のひとつですから、巡礼の方々がたくさんおられました。こちらは結構な賑わいで、お参りする人も多いです。
無憂園と名付けられた廻廊式のお庭。山を上手に背景にして、手入れの行き届いた美しいお庭です。
季節それぞれの花が咲き乱れるそう。
四阿の中から。四阿にたれを座らせてみました。
流れる水が凝っています。
それにしても、紅葉にはちょっと早かったのが本当に残念でした。
次の機会は是非、紅葉の季節に。
庭の一角には紫式部の銅像がありました。平安の世の同人作家。石山の月を見ながら思いにふける様の絵は、有名な画題となってきたようです。
さらに歩をすすめると、大友皇子の若宮に辿りつきました。若宮とは、非業の死を遂げた貴人を祀る宮のことです。怨霊となっての祟りを封じるための社です。
日本古代史最大の戦争である壬申の乱。叔父甥の関係にある大海人皇子と大友皇子の骨肉の争いは軍事的な衝突となりました。
近江京を守る大津皇子は、最終決戦の場所を瀬田大橋を選んだようです。そして、その最終防衛ラインを突破され、哀れ、湖の側にあった近江京は滅び、その跡を忍ぶものは何もありません。
大友皇子の墓は別の場所にもあるようですが、この若宮からは瀬田の大橋を見ることができます。短い栄華に散った薄幸の皇子を惜しんで、この若宮は建てられたのでしょう。
紫式部もその無常を思ったでしょうか。
瀬田の大橋は数々の物語や民話の舞台となっています。もちろん、そのいにしえの姿からは随分と様変わりをしているのでしょうが…。それでも、実際にその場所を訪れるというのは、感慨があるものです。
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